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広島県の民話

たけた山のたから

広島市安佐南区の歴史話。
中世の頃、安芸の国を300年も支配した武田氏。祇園の地に山城、金山城を築城したのが武田信宗です。武田山の名前は、武田氏にちなんでつけられたと伝えられています。標高410.9mのこの山は、古代中国に起源する四神相応の地相を満たした山で、東に青龍。清い流れの太田川。西に白虎。大きな道である旧山陽道。南に朱雀。広い盆地のある広島城の築かれたデルタの地。北に玄武。荒谷山、能登呂山、権現山が連なり、全山をうまく利用した難攻不落の山城でした。このような金山城も、あの有名な西の桶狭間の戦いとも言われている毛利元就との戦いで武田元繁が破れてから、武田氏の勢力も弱まってきたころのおはなしです。
いよいよお城が落ちるかもしれない、と思ったその時のお殿様は、城から南東にあたる山の中腹に先祖相伝の純金の茶釜や、金銀の財宝を埋めておきました。戦に負けても誰か武田氏の再興を図る者があった時、その軍資金とさせたい。という願いがあったのです。そして、宝を埋めた場所に目印の白南天の木を植えておきました。
これは誰も知らない。と思われていましたが、武田氏が滅びるとすぐに人々に知られてしまい、この宝探しのため、多くの武士達は白南天を探すのですが、白南天の木はみつかりません。山の中をあちこち掘っても宝は出てきません。そのうち、
「武田の宝は、ありゃほんとはなぁんじゃ。あぁゆうて嘘をゆうたのよ。」
と、こんな噂が流れて宝探しをする人もいなくなってしまいました。
しかし、宝は必ずある。と、密かに狙っていた人がいました。それは、ごんだゆう、という武芸者です。
「よし、わしが絶対探してみせる。まず、白南天の木がどの辺りにあるか、それを調べにゃいけん。」
ある時、村の年寄が薪を拾いに行って白南天の木を見たと聞き、早速その年寄を訪ね、山の頂上からどのぐらいの位置か目印の岩など詳しく教えてもらい、大体の見当をつけたのです。虚無僧の姿に変えたごんだゆう。武田山へと登っていきました。目星をつけた地点に辿り着いた時、突然、
「こりゃあ。我は何しに来たんかぁ。」
顔中傷だらけで足の不自由な大男の老人が現れ、竹槍をしごきながら物凄い形相で言いました。
「宝探しのうじ虫どもめが。さっさといねえ。さもないと我の命はないでぇ。」
ごんだゆうも名の通った武芸者です。負けてはいません。
「そぉゆうお前こそ誰か。お前も宝探しの一員じゃろぉが。」
「わっはっはっはっはっは。白南天の下の宝を探しに来たんじゃろうが。あわれなものよ。宝の話しが里に流れたのを知って、わしがぜーんぶよそへ移してしもうたわい。わはははははは。お家最高の宝を守るため、わしゃあ、こうして生きとるんじゃ。」
「なんだとぉ。お前は宝のありかを知っとるんか。ほいじゃ、悪いことは言わんけ。わしに宝のありかを教えてくれ。あんたをわしが仕える殿様に召し抱えてもろうてやるけ。」
「馬鹿めが。そがぁな手に乗るもんか。はよういなにゃあ突き殺すでぇ。」
大男は槍をグイッと突き出しました。ごんだゆうパッと飛びのくと、
「ゆうてもわからん奴じゃのぉ。それならわしにも覚悟がある。」
ごんだゆう、刀を引き抜き大男めがけて切りつけました。大男は、ハアハアゼエゼエ言いながら槍を振り回して向かって来ます。2人はしばらく戦っていましたが、そのうち大男の老人は大きく一息つくと目をむいてひっくり返って動かなくなりました。
「おい。こら。かかって来い。どぉしたんや。おい。こら。ん。ん。あっりゃあ。こんなぁしんのぞうが止まっとらぁ。やれしもーたぁ。切り合いせずに、よう話しゃあ良かったのぉ。」
ごんだゆう、地面をたたいて後悔しました。それとともに、宝のありかは分からなくなりました。宝探しの人には白南天は見えないけれど、その気がなく武田山へ登ると、白南天をみつけることができるそうです。
もう1つ、武田山の話しの中で備中の山師、伝兵衛の話しがあります。この伝兵衛さん、朝日の昇る頃、戸坂の方から武田山を見ていたら、山が輝いて見えた。これは何かあると思い、山に入り、目星をつけて掘っていました。当時は旅に出たり遠出をする時には、やき米を持っていく習慣があったそうで、「登ってみんさい、たけだの山へ。掘ってみんさい、やき米を。」と民謡にもうたわれるように、伝兵衛さん、やき米を食べながら、コツコツ、コツコツ掘っていたんでしょうねえ。やき米と言えば、武田山からはたくさんのやき米が出てきたそうです。これは銀山城の米蔵が平員家(たいらのかずいえ)によって焼き討ちにされた時の米だと言われています。
伝兵衛さん、あれこれ試行錯誤しながら鉱脈を掘り当てました。武田の宝、というのはこの鉱山のことだったのかもしれませんねえ。
のちに毛利元就が伝兵衛のその技術を見出して自分の国へ連れて帰り、仙山(せんのやま)を掘らせたのです。伝兵衛は初代奉行の大久保石見守長安と協力して釜屋間歩を開発し、膨大な銀鉱脈を掘り当てました。あの有名な石見銀山です。2007年7月には世界遺産に登録されましたね。大久保長安に伴われた伝兵衛は、伏見城で徳川家康に一間四方の梵鐘に白銀を蓬莱山の形に積み上げて献上したのです。家康は大喜びで伝兵衛に、安原備中守伝兵衛、と苗字帯刀を許すとともに、家康着用の陣羽織と胴服を家康手ずから与えられました。安原備中守伝兵衛のお墓は、大森町銀鉱山清水寺に立派に建立されているそうです。やす方面を搦め手側(からめてがわ)、祇園方面を大手側と言い、お城の名前は、金の山の城と書いてかねやま城、とも、銀の山の城と書いてかなやま城とも言われていますが、芸藩通志には金の山の城と記されています。このように安佐南区にある武田山とかなやま城跡は、広島の誇る歴史ある山とお城であったことを後世に語り伝えていきたいですねぇ。
おしまい。

紙芝居サークル
陽だまり
2013年11月26日
近藤由紀子様 朗読
 近藤由紀子様

ご協力ありがとうございました。

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